観戦 - 服部緑地 2009秋 13
SONY α350
TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO
place: 服部緑地

『夫婦善哉』(1955) 森繁久弥 淡島千景
殺人容疑で指名手配されていた犯人が大阪で捕まったらしいと聞き、テレビを観ていたら、モリシゲが死んだという報が流れてきた。
テレビをビデオに切り替えた。
なんとなく、映画『夫婦善哉』を観たくなった。
VHSを段ボール箱のなかから発掘してきた。
これは昔、大阪の食べ歩きのようなものをやって、織田作之助ゆかりのナンバの《自由軒》や、オダサク自身の墓がある寺(※楞厳寺(りょうごんじ))を訪ねたりしたことがあり、そのときに参考資料として編集者からもらったものである。今は、DVDになっているようだ。
個人的に忘れられないのは、『屋根の上のバイオリン弾き』の舞台だ。
友人から、「チケットもろたんやけど行くか?」と誘われて観に行った。20歳のころだったから、もう30年ちかく前のことである。
場所はどこだったろう……大阪フェスティバルホールのような気もするが、もっとせまかったように思う。厚生年金ではないだろう……ああ、たぶん、梅田コマだったのではないか……。
ハッキリと思い出せない。トシだ……。
他の出演者の顔ぶれで憶えているのは、ホーデル役が安奈淳さんで、パーチック役が『飛び出せ!青春』に出演していた谷岡行二であったことくらいだが、とにかく、あのときの感動が、ほんのりとあたたかいかたまりとなって、今も心の底に転がっている。
私は、自然な演技を自然にやれる役者が好みで、森繁などはまったくそのタイプの役者だった。社長シリーズは以前、CSで繰り返しやっていたのでよく観た。
大阪ものでは上の『夫婦善哉』のほか、『桂春団治』なども印象に残っている。
また、『サラリーマン忠臣蔵』を好きで、年末は本道の時代劇より、こちらを観ることが多い。
〝モリシゲ〟は苗字ではなく、愛称だった。
また一つ、空席が生まれた。そんな寂しさがある。
SONY α350
SONY α50mm F1.4(SAL50F14)
【訂正】
調べてみると、谷岡はピーチックではなく、フョードカ役であったそうだ。この記憶には自信があったのだが……。
テヴィエ 「ところで、パーチック」
ピーチック(間髪を入れず) 「ピーチックです!」
そんなやりとりをする場面があり、それがモリシゲと谷岡とのものとして脳みそに刻みこまれてしまっていた。
記憶なんてアテにならんですな……。

部屋のなかでレコードやCDのジャケットばかり撮るのに飽きてきた。
ひさしぶりになんか撮ってみようと、服部緑地を歩いてみた。
ここを訪れると、少年のころが思い出されてならない。
ずいぶん変わってしまった。
なくなった径がある。好きな径だった。
今、そこにはでかいレストランが建っている。
私は40年前の服部緑地を、かなり鮮明に思い浮かべることができる。
この記憶を風化させてはならない。そんなことを思ったりした。
SONY α350
SONY 135mm F2.8[T4.5] STF (SAL135F28)
place: 服部緑地(大阪府豊中市)
毎度の気の置けぬオッサンキャンプメンバーで梅田の某ビアガーデンへ突撃。
実はココ、時効だろうから書くが、高校生時代の夏、よく飲みに来ていたところである。友人がバイトしていたのだ。いろいろと愉しいことがあった。詳細は省略す。

↑前回の大野山キャンプをブッチしたNG氏が復帰。背後を見ると空いているようにみえるが、これは閉店間際ゆえ。この日、超満員。われわれも予約のうえ、乗りこんでいた。
↑長々と呑みつづけるタイプ、馬でいえば典型的ステイヤーのSN氏。時間の限られた電撃戦は苦手のようだ。
↑黒ビール派。YT氏。
↑それなりに盛りあがるが……。
ビアガーデンも様変わりした。
飲み放題・食い放題。ビールはジョッキをもってもらいにゆく。料理は積んである皿を手にして好きなのを取るバイキング形式。
アカン。
お代わりのたびに席を立つことになり、会話は途切れる。せわしない。
やっぱり、手のでかいニーサンがジョッキを6つも8つもつかんで、泡をこぼしながらそのへんを行ったり来たりしてくれんと……。
「たのむで」のひとことでビールがサッと運ばれてこんと……。
私は酒場で働いた経験があるけれど、なれてくると10件くらいの注文は一発で頭に入るものである。
ほどなく、(たとえば今回は4人だから)4つのジョッキがドンとテーブルに届くときの小気味よさがほしい。
全員不完全燃焼!
料理もたいしたことない。そのせいか、各テーブルには盛大なる食べ残し。美しい光景ではない。
もうビアガーデンはやめた。
やっぱり、焚火でエンエンとグイグイ――がよろしいワ。
SONY α350
SIGMA 18-50mm F2.8 EX DC
place: 大阪梅田
池田一行さんといって、自称〝温泉旅人(おんせんりょにん)〟。
全国の温泉という温泉を巡りに巡って、その数や3000を超えるという。
それだけにとどまらない。『これが温泉だ!』という本を自費出版。現物をみせてもらったが、すばらしい仕事だった。
すべてをみずから撮り、みずから書いている。おのれの皮膚で感じた温泉の印象をストレートに書き表した力作で、そんじょそこらのガイドブックなどとは次元が違っていた。
さすがは旅人だけあって、ネット上では、旅先などで池田さんと出会った方々の記述がちらほら見られる。
耳をかたむけているのは、茨城のIさん。茅葺き屋根の職人をしておられる。ここ(然別峡野営場)で出会い、晩餐をともにした。
一泊のつもりが、翌朝、池田さんと談笑するうちに時間が過ぎ、また、ほかのキャンパーらと仲よくなったりして、ともに連泊することになってしまった。
とにかく、池田さんの温泉にかける情熱には、口先ではないほんものの迫力があった。
なにかに打ちこめることのすばらしさを、その気魄で教えてくれた。
まさに「温泉旅人」である。
露天(野天)風呂に入るたびに、温度計を握りしめた池田さんのことを思い出す(笑)。
※国設然別峡野営場はこの年(すなわちこの直後)、台風によって壊滅的な打撃を受けた。魅力的な森林は消滅してしまい、ただの山間広場になってしまった。
date: 2006年09月
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2年前、網走のキャンプ場で隣同士になった方です。
このとき、67歳。宝塚市仁川在住。
仕事をリタイアしたのち、12年連続の北海道。キャリア(荷台)は特注。
滞在予定は40日間とおっしゃっていた。
スイス、ニュージーランドにも行かれたそうですが、それでも北海道が色あせることはなかったとのこと。
こういう元気人、ホンモノのアウトドアマンに遭えるのが、私にすれば、北海道の魅力の一つ。自分など、まだまだ青い、と思わされ、元気が出る。
師匠、無断掲載スミマセン。今も元気で走ってはるかなァ……。
このときのわがキャンプ風景。上の写真の方のテントは、私の立ち位置からさらに後方。ソロキャンパーは、お隣さんとベッタリくっつかないものである。くっつきたがるやつもいるが……。
【網走呼人浦キャンプ場】
キャンプ場の評価としては(中)というところだが、タダなので文句はいえぬ。ひとつ言わせてもらえれば、トイレの個室が一つしかないのは、自分としてはヒジョーに心もとない。シーズン中ならたいへんなことになってしまいそうだ。
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ふと、どこかへ行きたくなる――。
そんなときに浮上してくるのがこのアルバムだ。
逆に、これを聴くとどこかへ行きたくなる、というものでもある。
酒場でバイトしていた学生時代、店の客で顔なじみだった大阪大学の大学院生Yさんに連れられて、千里山(関西大学近く)の《華》という居酒屋へ行った。
私は関西学院大の学生で、Yさんは阪大である。それがなぜか関西大エリアの居酒屋だった。バイト先からは、かなり距離があった。
そこで、Yさんの後輩Oくんが合流した。大阪外大を中退して就職活動中という男で、その酒場からそれほど遠くないところに住んでいた。私は、Oくんとは初対面だった。
3人で、そのころはマイナーだった芋焼酎をガンガン呑み、Oくんの部屋で続きをやろうとなった。
Oくんの住まいであるマンションのバルコニーは、『さつま白波』の空瓶で埋めつくされていた。50本くらいはあったのではなかったろうか。
前置きが長引いた。
その部屋でOくんが流していたBGMがこの『トラヴェルズ』だった。
朝まで呑んだのはまちがいないが、どうやって帰ったのかは憶えていない。
それでもこのディスクのことを思い出したのは、自分の学生手帳に、乱雑な文字でアルバムのタイトルが書かれてあるのをあとで発見したからである。
それを記したことも記憶になかった。だが、気に入ったという印象だけは、かろうじて残っていた。
私はCDを買うことにした。関学の生協で購入したはずである。
Yさんは、その後英米へ留学したらしい。だいぶ経ってから、テレビに出ているのを偶然観た。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で働いておられた。カブール事務所の所長をされているか、あるいはやめられた直後ではなかったか。911後、にわかにアフガニスタンが緊張しはじめたころで、それについて語っていらした。
私はつい笑ってしまった。Yさんはやや酒乱の傾向があった。それがすまし顔で、深刻な問題について淡々と解説していたからだった。
Yさんの引っ越しを手伝ったことがある。私のほかに、何人か友人らがかり出されていた。男一人分とはいえ、書物の量がハンパではなかった。その夜もやっぱりあの《華》へ行った。
またある日の夜遅く、店にYさんが来て、今からウチで呑むから来い、と言う。私はバイトが終わってから、Yさんのアパートへ行った。
宴会が始まっていた。阪大の学生が5、6人おり、みなおとなしく呑んでいた。すると、酔ったYさんが突然、腹を立てはじめた。「おまえら、暗いんじゃ!」、そう言って一人の学生をげんこつで殴ったりした。
私は阪大とは無縁で、いわば彼らの輪の外から来た人間だった。おもろいとは思ったが、このまま傍観するわけにもいかない。
だれも止めそうにないので、私がYさんを羽交い締めにして抑えた。するとYさんがまた怒った。私にではない。むしろ、私はほめられた。「身体をはって止めるんはこいつだけや! おまえら根性ないんや!」と学生らに向かってわめきちらした。たしかに、我関せず、といった感じの連中だった。
卒業したら(※そのころは卒業するつもりでいた)記者になるつもりだ、と言うと、これくらい読んでおけ、と言って、林達夫や、宮武外骨の本をくれたりした。
ロバート・B・パーカーの『愛と名誉のために』をすすめられたりもした。主人公が、酒に酔ってベロベロになるシーンがある。私はカウンターでYさんが『火宅の人』(壇一雄著)を読んでおられたのを記憶している。のんべとはそういうものなのだろうと今、思う。
そんなことを思い出すと、やたらなつかしくなって、なんとか連絡をとりたいと思い、あちこち電話してみたが、自分がどこの馬の骨やらわからぬせいか、埒が明かない。そこで、世話になっていた新潮社の編集者に、UNHCRへ電話を入れてもらった。新潮社の看板なら、という計算があった。
しかし、「Yさんがどこにいるのか事務所でもわからない」とひどく合点のゆかぬ回答で、埒が明かぬことに変わりはなかった。
後日、朝日新聞(関東版)の「ひと」欄にYさんが出たのを知った。朝日新聞社に電話し、あれこれと事情を話して、Yさんのメールアドレスを教えてもらった。今ほどには、個人情報の管理にうるさくなかったようである。
私はメールを送ってみた。しかし、返事はかえってこなかった。
その後しばらくたってからだったか、『カブール・ノート』というYさんの本が出て、評判になっていた。版元の幻冬舎の人間とは名刺交換程度ならやっていたが、それだけで「たのむワ」とは言いづらく、『カブール・ノート』についても、そのうち手にしようと思いつつ、そのままになってしまった。
いろんなひとと遇った。
忘れてしまった出会いもあるだろう。
Yさんのことを忘れられないのは、芋焼酎の魅力を教えてくれた人だからである。当時は、イモ愛飲派はごく少数で、芋焼酎自体を置いていない店も多かった。
それを勧められて、呑むようになった。
あれから20年が経つ。
ネットで検索してみたら、Yさんは現在、国連の関係機関の職員をされているようだ。
もはや、連絡をとろうとは思わない。お元気であればそれでいい。
『トラヴェルズ』のことをさらりと書くつもりが、豪快に脱線した。
人生はトラヴェルズ――。
人と出会い、音楽と出会う。
あの日、あの人と出会わなければ、この曲とも出会っていなかった――そんなことがあるものだ。
ひさしぶりにこのアルバムを聴きながら、焼酎あおってみますかネ。
そしてオレは、やっぱりどこかへ行きたくなるんだろうナ。
◆トラヴェルズ / パット・メセニー・グループ・ライヴ (ECM J58J 20083/4 CD-JAPAN)
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mummy 「さあ、インケツな世の中や。踊って忘れんかい。ワーッソ、ワッソ!」
fefefe 「アカン、熱出てきた……」
SONY α350
TOKINA AT-X Pro AF80-200mm F2.8
place: 四天王寺
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