昔日

2009年12月 6日 (日)

28 years later

20091205shoka5bw
 
 この3人、大阪府立桜塚高等学校の同級生。
 実は、オレらが顔を合わせるのは、27年と11ヶ月ぶり。
 成人式の日の夜、梅田の《陸蒸気(おかじょうき)》という店で呑んで以来となる。

 大病を克服して死の淵から生還したK。
 上司を蹴っ飛ばして退職した……のかどうかは知らぬが、ともかく脱サラ後、現在11年目銘酒蔵《昌佳》のマスターT。
 あいかわらずの自由人、ワタクシ。

 生きてりゃなんなとあるもんじゃ。
 人生の不可思議さ、おもしろさをかみしめた夜でございました。
 ふたりともThanks!
 桜塚高校、バンザ~イ!
 

 SONY α350
 SONY α50mm F1.4(SAL50F14)
 place: 銘酒蔵《昌佳(しょうか)》(大阪地下鉄御堂筋線江坂駅南東方向徒歩3分)
 ※撮影はTの奥様

 

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2009年11月18日 (水)

traffic light - 服部緑地 2009秋 15終

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091028hr045 
 

 ボールが見えなくなるまで、野球やドッジボールをやっていた。
 そんなことを思い出すと、なぜかカレーを食いたくなる。
 

 SONY α350
 SONY 135mm F2.8[T4.5] STF (SAL135F28)
 place: 服部緑地(大阪府豊中市)

 

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2009年10月25日 (日)

my nostalgic 14 - サクラホクトオー号

Sakurahokutoo005
 

 サクラホクトオーを買っておいしい思いをしたことはないが、あえて彼をはずし、馬券をとったことはある。
 皐月賞だった。
 ドクタースパートが優勝、ウィナーズサークルが2着に入線、一番人気のホクトオーは「エエとこなし」に終わった。ただし、ウィナーズサークルは代用、すなわち、私が狙っていたのは同枠にいたスターサンシャインという関西馬だったのであるが……。
 また、兄のサクラチヨノオーはダービーを制しており、私はそのレースで単勝をとっている。
 「♪とったとった~ \(^O^)/」と景気のいいことを書いたが、競馬の収支はそれこそウルトラ赤字であって、もらったレースを忘れられないだけである。

 写真は、引退後のホクトオーが繋養されていた北海道の静内スタリオン・ステーションで撮らせていただいたもの。
 このとき、チヨノオーもとなりの放牧スペースにいたが、草を食っているばかりで、いいショットが撮れなかった(※馬というやつはのべつ草をはんでいるので、なかなか顔をあげてくれない)。

 親父は〝天馬〟の異名をとったトウショウボーイ。3歳(今でいう2歳)では圧倒的な強さを誇り、しかも関東馬。ダービーをとった兄よりも上、というのがもっぱらの評判だった。
 そんなのに私は興味はなかった。
 そのエリートが4歳(同じく3歳)になり、もがきはじめた。
 もがきながらも、随所できらめきを見せる。
 私はホクトオーに、いつしか惹かれるようになっていた。

 どこかしら運のなさを感じさせる馬だった。
 能力は確実にあった。
 2000年に死亡したという。
 本命ながら馬群に沈んだ皐月賞は印象に残るが、それよりも、大外からすっ飛んできた、菊花賞での豪脚(5着)が忘れがたい。

 以下は余談――。

 ところで本日、その菊花賞とか。
 競馬からは完全に離れてしまっている。
 10月に菊花賞なんて……と違和感をおぼえるほどだ。
 土曜の午後、入ったカレー屋のスポーツ紙に枠順が出ていた。
 出走馬に知った名はないが、彼らの父母、母の父になつかしい名前がある。
 そのうち、ナマで観たのはただ1頭、トニービンのみだった。鳴り物入りで来日したジャパンカップ(於東京競馬場)においてである。オグリキャップとタマモクロスが出るのでわさわざ遠征したのだった(※私はあのレース、(河内ジョッキーがふつうに乗っていれば)オグリキャップが勝ってたはずや、と今でも信じている。優勝はアメリカのペイザパトラー、タマモ2着、オグリ3着、トニービン5着)。
 そのトニービンも今は亡い。
 今回の菊花賞に出走するトニービンの孫、フォゲッタブルは、前走のセントライト記念では追い込んで3着、とデータをみるかぎり、長丁場がプラスにはたらきそうなレースをしている。
 複勝で遊んでみようか(笑)

 ■ サクラホクトオー 14戦05勝
    (父)トウショウボーイ (母)サクラセダン (母の父)セダン
 

 MINOLTA α707si
 TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO
 FUJICHROME Velvia (ISO50) 
 scanner: CANON LiDE 600F
 place:  北海道静内町(現新ひだか町)の静内SSにて
 date: 1995年09月


 【シャコンヌ狂時代】 デネシュ・ジグモンディ Denes Zsigmondy ( Z )

 

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2009年10月10日 (土)

浦霞(宮城県)でみちのくへ翔ぶ

Urakasumihiya5

 秋だからひやおろしか、ひやおろしだから秋か。
 ことによると、今が一年でもっとも酒のうまいときかも?

 なんでもいいから一本……と思いながら酒店へ。
 なつかしさもあって『浦霞(うらかすみ)』((株)佐浦――宮城県塩竃市)を選ぶ。
 『浦霞』は学生のころ、友人にすすめられて憶えた銘柄だ。
 ほろほろしつつ、二十年ちかく前に訪れたはずの塩竃の街を思い出そうとするが思い出せず。で、想いは同じ宮城の気仙沼、果てはカマつながりで岩手の釜石などへ飛んでいった。

 気仙沼の『いろり』という、ヘンコツ親父がやってる居酒屋がおもしろかった。ここは物書きを名乗っていたころ、『小説新潮』の取材で訪れた。
 ちょうど戻りガツオの時季だった。
 「これがフントのモドリだ!」
 超大盛りのカツオの造りだった。

 マッチになにやら書いてある。
 「大将、これなんちゅう意味ですか?」
 「書いてあるとおりだ!」

 「また来ますワ」
 「もう来んでいいぞ!」

 おみやげにサンマのしょうが煮をもらった。これまた大盛り(笑)

Kesennumairori12 Kesennumairori22
 今宵も酒がうまい。健康な身体で働いていれば――が標準語訳……と店主より教わった。


 また、釜石の街なかにあった呑兵衛横丁を思い出していた。
 一杯飲み屋の看板がひしめきあっているのが壮観だった。小生、オートバイなので見学しただけだったけど。

1991kamaishi50_2
 1991年08月02日 岩手県釜石市 ペンタックスのコンパクトカメラで撮影

 等々。

 一本(四合瓶)呑みきって翌日爽快。
 
   酔うてカラ瓶と寝ていたよ―― fefefe
 

 SONY α350
 SIGMA 18-50mm F2.8 EX DC
 ●『浦霞』特別純米酒ひやおろし (宮城県)
 
 ※上掲句のネタ元はもちろん、山頭火の『酔ふてこほろぎと寝てゐたよ』です。

 

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2009年9月30日 (水)

坂本九 『上を向いて歩こう』

Sukiyaki

『上を向いて歩こう』 ( 1961 )
 歌 / 坂本九  詞 / 永六輔  曲・編 / 中村八大
  (東芝音楽工業株式会社 JP-5083  EP)


 幼いころ、母親について、ひと駅離れたスーパーまでよく買い物に行った。
 親が食料品などを買いあさっているあいだは退屈なので、ほかの店をのぞいて時間をつぶした。

 2階の〝専門店のフロア〟には、本屋からスポーツ用品店まで、さまざまな店が集合している。雑貨店、今でいうアクセサリーショップなどもある。
 装飾された小箱が十ばかりならんでいた。
 オルゴールだった。
 なかに一つ、お気に入りがあって、その店へ行くたびに、そればかりいじっていた。曲がよかった。
 結びつけてあるタグに曲名が記してある。ヘンな名前だ。
 『上を向いて歩こう』――。
 そのオルゴールがほしくてならなかったが、ガキにすればやや高額な品で、そう簡単には手が出ない。

 ある日、親戚の人がウチを訪ねてきた。夏の暑い時季で、1泊か2泊して帰った。
 帰り際、小遣いをくれた。千円札を一枚。
 五百円あれば、たいていのものは買える、そんな気分になる時分の千円だ。分不相応な額と言っていい。
 あのオルゴールのことを思い出していた。

 数日後、一人で出かけた。
 すでに夕刻だった。明るいうちには帰ってこれないのはわかっていたけれども、がまんができなかった。
 スーパーに到着する。2階に駆け上がる。アクセサリーショップに直行、オルゴールを手にする。そのままレジに持って行く。
 店員が、動作確認のためだろう、オルゴールのフタを開いた。砂金のような音色がこぼれ落ちた。
 驚いた。
 『上を向いて歩こう』ではない。デザインがまったく同じで、気がつかなかったのである。

 取り替えをたのんだ。売れてしまった、と女性店員は言う。ずーっと置いてあったのに、と文句をつけた。だが、ないものはどうしようもない。
 納得できず、しばらくそこで踏んばった。店員は困ったような顔で私を見おろしていた。
 そのうちまた入ってくるから。やがて、そんななぐさめの声が聞こえた。
 ふてくされて店を離れた。

 外に出るとすっかり暗くなっている。泣きたい気持ちだった。

 ♪上を向いて歩こう
  にじんだ星をかぞえて
  思い出す 夏の日
  一人ぼっちの夜


 だいぶあとになってから、そんな歌詞を知った。あのときの自分そのものだったことに驚いたものである。

 

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2009年8月18日 (火)

great game

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 全国高等学校野球選手権大会に、兵庫県代表として関西学院(くゎんせいがくいん)高等部が出場した。

 かつて関西学院(大学)とは縁があった。
 校歌『空の翼』や応援歌『新月旗の下に』は中も高も大も同じである(※今は幼稚園や初等部もあるそうだ)。なつかしいので聴きたいものだと思った。両歌とも、入学時にたたきこまれるので、私は今でもうたうことができる。

 関学は初戦を突破した。甲子園に校歌が流れたが、私は所用でTVやラジオを視聴することができなかった。
 そして今日の二戦目、中盤からテレビ中継を観ることができた。

 関学高等部は敗れ去り、結局二度目の校歌は聴かれなかった。
 勝利に越したことはない。しかし、ソウルフルな闘いぶりに私は大いに満足した。相手は強豪校で、いわゆる〝順当勝ち〟なのかもしれない。が、観戦者に感動を与えたのはまちがいなく関学の全員野球だったはずだ。

 試合後の相手監督のコメントに腹を立てた。おのれの采配ミスの反省に終始し、それがなければ楽勝だったと言わんばかりだったからである。
 私は「こんなデリカシーのないやつが監督やってるのか!」とテレビに向かって吠えた。「こいつは人間ができていない!」と毒づき、すくなくとも教育の現場には不適な男だと結論づけた。
 その点、関学の広岡監督は謙虚だった。「関学は予想以上によくやった、と観ている人は思ったのではないか」と、そのなかに自身をもふくめたうえでそう語り、誇りをただよわせていたのである。

 自分のそんな過剰な反応に気づき、試合に熱狂させられていたことに気づいた。
 おそらく、ひさしぶりに観た高校野球が、高校野球らしいひたむきな野球、次を考えない全力を尽くした野球だったのがうれしかったのだろう。

 ありがとう、関西学院高等部野球部員諸君。
 中退した学校(の関連機関)とはいえ、なんとなく忠臣蔵の不破数右衛門の心境で応援した。
 すばらしいゲームだった。


※写真は関西学院の校章。
 高校の大先輩で、ちゃんと関学を卒業された方が、何年かまえにくださったもの。
 学生時代にもっていた校章を、中退後も思い出として保管していたが、いつしか紛失してしまい、残念がっていたのだった。当時私がもっていたものは銀色だったような記憶があるが、これは真鍮のような色をしている。
 初戦での『空の翼』と『新月旗の下に』はYouTubeで視聴できました。
 

 SONY α350
 TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO

 

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2009年8月 2日 (日)

my nostalgic 12 - 丘のまち

Biei1990s6

 

 美瑛は〝丘のまち〟と呼ばれる。
 最近、このあたり(※となりの上富良野)に観覧車が出現したらしい。これを決定した連中はいったいどういう脳ミソをおもちなのか。信じられない愚行である。

 90年代に撮ったポジを起こしたもの。四隅の黒ずみは「ケラレ」といって、レンズ先端に装着したフィルターが(厚みがあるために)、画面に干渉して発生する現象。
 

 MINOLTA α707si
 MINOLTA AF24-85mm F3.5-4.5
 place: biei, hokkaido
 date: 1990s
 


 【シャコンヌ狂時代】 巌本真理 Mari Iwamoto ( I )( 1949)

 

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2009年7月24日 (金)

my nostalgic 11 - 忘れ得ぬ人 in Hokkaido( 2 )

Onsenryonin6

 池田一行さんといって、自称〝温泉旅人(おんせんりょにん)〟。
 全国の温泉という温泉を巡りに巡って、その数や3000を超えるという。
 それだけにとどまらない。『これが温泉だ!』という本を自費出版。現物をみせてもらったが、すばらしい仕事だった。
 すべてをみずから撮り、みずから書いている。おのれの皮膚で感じた温泉の印象をストレートに書き表した力作で、そんじょそこらのガイドブックなどとは次元が違っていた。
 さすがは旅人だけあって、ネット上では、旅先などで池田さんと出会った方々の記述がちらほら見られる。

 耳をかたむけているのは、茨城のIさん。茅葺き屋根の職人をしておられる。ここ(然別峡野営場)で出会い、晩餐をともにした。
 一泊のつもりが、翌朝、池田さんと談笑するうちに時間が過ぎ、また、ほかのキャンパーらと仲よくなったりして、ともに連泊することになってしまった。

 とにかく、池田さんの温泉にかける情熱には、口先ではないほんものの迫力があった。
 なにかに打ちこめることのすばらしさを、その気魄で教えてくれた。
 まさに「温泉旅人」である。

 露天(野天)風呂に入るたびに、温度計を握りしめた池田さんのことを思い出す(笑)。
 

※国設然別峡野営場はこの年(すなわちこの直後)、台風によって壊滅的な打撃を受けた。魅力的な森林は消滅してしまい、ただの山間広場になってしまった。
 

 date: 2006年09月

 

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2009年7月15日 (水)

my nostalgic 10 - 忘れ得ぬ人 in Hokkaido(1)

Abashiri6  

 2年前、網走のキャンプ場で隣同士になった方です。
 このとき、67歳。宝塚市仁川在住。
 仕事をリタイアしたのち、12年連続の北海道。キャリア(荷台)は特注。
 滞在予定は40日間とおっしゃっていた。
 スイス、ニュージーランドにも行かれたそうですが、それでも北海道が色あせることはなかったとのこと。
 こういう元気人、ホンモノのアウトドアマンに遭えるのが、私にすれば、北海道の魅力の一つ。自分など、まだまだ青い、と思わされ、元気が出る。

 師匠、無断掲載スミマセン。今も元気で走ってはるかなァ……。
 

Abashiritent6

 このときのわがキャンプ風景。上の写真の方のテントは、私の立ち位置からさらに後方。ソロキャンパーは、お隣さんとベッタリくっつかないものである。くっつきたがるやつもいるが……。

 
【網走呼人浦キャンプ場】
 キャンプ場の評価としては(中)というところだが、タダなので文句はいえぬ。ひとつ言わせてもらえれば、トイレの個室が一つしかないのは、自分としてはヒジョーに心もとない。シーズン中ならたいへんなことになってしまいそうだ。

 

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2009年7月 7日 (火)

Yさんとの思い出 - パット・メセニー 『トラヴェルズ』

 

Pattravels3

 

 ふと、どこかへ行きたくなる――。
 そんなときに浮上してくるのがこのアルバムだ。
 逆に、これを聴くとどこかへ行きたくなる、というものでもある。


 酒場でバイトしていた学生時代、店の客で顔なじみだった大阪大学の大学院生Yさんに連れられて、千里山(関西大学近く)の《華》という居酒屋へ行った。
 私は関西学院大の学生で、Yさんは阪大である。それがなぜか関西大エリアの居酒屋だった。バイト先からは、かなり距離があった。
 そこで、Yさんの後輩Oくんが合流した。大阪外大を中退して就職活動中という男で、その酒場からそれほど遠くないところに住んでいた。私は、Oくんとは初対面だった。
 3人で、そのころはマイナーだった芋焼酎をガンガン呑み、Oくんの部屋で続きをやろうとなった。
 Oくんの住まいであるマンションのバルコニーは、『さつま白波』の空瓶で埋めつくされていた。50本くらいはあったのではなかったろうか。

 前置きが長引いた。
 その部屋でOくんが流していたBGMがこの『トラヴェルズ』だった。

 朝まで呑んだのはまちがいないが、どうやって帰ったのかは憶えていない。
 それでもこのディスクのことを思い出したのは、自分の学生手帳に、乱雑な文字でアルバムのタイトルが書かれてあるのをあとで発見したからである。
 それを記したことも記憶になかった。だが、気に入ったという印象だけは、かろうじて残っていた。
 私はCDを買うことにした。関学の生協で購入したはずである。


 Yさんは、その後英米へ留学したらしい。だいぶ経ってから、テレビに出ているのを偶然観た。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で働いておられた。カブール事務所の所長をされているか、あるいはやめられた直後ではなかったか。911後、にわかにアフガニスタンが緊張しはじめたころで、それについて語っていらした。
 私はつい笑ってしまった。Yさんはやや酒乱の傾向があった。それがすまし顔で、深刻な問題について淡々と解説していたからだった。

 Yさんの引っ越しを手伝ったことがある。私のほかに、何人か友人らがかり出されていた。男一人分とはいえ、書物の量がハンパではなかった。その夜もやっぱりあの《華》へ行った。
 またある日の夜遅く、店にYさんが来て、今からウチで呑むから来い、と言う。私はバイトが終わってから、Yさんのアパートへ行った。
 宴会が始まっていた。阪大の学生が5、6人おり、みなおとなしく呑んでいた。すると、酔ったYさんが突然、腹を立てはじめた。「おまえら、暗いんじゃ!」、そう言って一人の学生をげんこつで殴ったりした。
 私は阪大とは無縁で、いわば彼らの輪の外から来た人間だった。おもろいとは思ったが、このまま傍観するわけにもいかない。
 だれも止めそうにないので、私がYさんを羽交い締めにして抑えた。するとYさんがまた怒った。私にではない。むしろ、私はほめられた。「身体をはって止めるんはこいつだけや! おまえら根性ないんや!」と学生らに向かってわめきちらした。たしかに、我関せず、といった感じの連中だった。
 卒業したら(※そのころは卒業するつもりでいた)記者になるつもりだ、と言うと、これくらい読んでおけ、と言って、林達夫や、宮武外骨の本をくれたりした。
 ロバート・B・パーカーの『愛と名誉のために』をすすめられたりもした。主人公が、酒に酔ってベロベロになるシーンがある。私はカウンターでYさんが『火宅の人』(壇一雄著)を読んでおられたのを記憶している。のんべとはそういうものなのだろうと今、思う。

 そんなことを思い出すと、やたらなつかしくなって、なんとか連絡をとりたいと思い、あちこち電話してみたが、自分がどこの馬の骨やらわからぬせいか、埒が明かない。そこで、世話になっていた新潮社の編集者に、UNHCRへ電話を入れてもらった。新潮社の看板なら、という計算があった。
 しかし、「Yさんがどこにいるのか事務所でもわからない」とひどく合点のゆかぬ回答で、埒が明かぬことに変わりはなかった。
 後日、朝日新聞(関東版)の「ひと」欄にYさんが出たのを知った。朝日新聞社に電話し、あれこれと事情を話して、Yさんのメールアドレスを教えてもらった。今ほどには、個人情報の管理にうるさくなかったようである。
 私はメールを送ってみた。しかし、返事はかえってこなかった。

 その後しばらくたってからだったか、『カブール・ノート』というYさんの本が出て、評判になっていた。版元の幻冬舎の人間とは名刺交換程度ならやっていたが、それだけで「たのむワ」とは言いづらく、『カブール・ノート』についても、そのうち手にしようと思いつつ、そのままになってしまった。


 いろんなひとと遇った。
 忘れてしまった出会いもあるだろう。
 Yさんのことを忘れられないのは、芋焼酎の魅力を教えてくれた人だからである。当時は、イモ愛飲派はごく少数で、芋焼酎自体を置いていない店も多かった。
 それを勧められて、呑むようになった。
 あれから20年が経つ。
 ネットで検索してみたら、Yさんは現在、国連の関係機関の職員をされているようだ。
 もはや、連絡をとろうとは思わない。お元気であればそれでいい。


 『トラヴェルズ』のことをさらりと書くつもりが、豪快に脱線した。
 人生はトラヴェルズ――。
 人と出会い、音楽と出会う。
 あの日、あの人と出会わなければ、この曲とも出会っていなかった――そんなことがあるものだ。

 ひさしぶりにこのアルバムを聴きながら、焼酎あおってみますかネ。
 そしてオレは、やっぱりどこかへ行きたくなるんだろうナ。


 ◆トラヴェルズ / パット・メセニー・グループ・ライヴ (ECM J58J 20083/4 CD-JAPAN)

 

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