昔日

2009年10月25日 (日)

my nostalgic 14 - サクラホクトオー号

Sakurahokutoo005
 

 サクラホクトオーを買っておいしい思いをしたことはないが、あえて彼をはずし、馬券をとったことはある。
 皐月賞だった。
 ドクタースパートが優勝、ウィナーズサークルが2着に入線、一番人気のホクトオーは「エエとこなし」に終わった。ただし、ウィナーズサークルは代用、すなわち、私が狙っていたのは同枠にいたスターサンシャインという関西馬だったのであるが……。
 また、兄のサクラチヨノオーはダービーを制しており、私はそのレースで単勝をとっている。
 「♪とったとった~ \(^O^)/」と景気のいいことを書いたが、競馬の収支はそれこそウルトラ赤字であって、もらったレースを忘れられないだけである。

 写真は、引退後のホクトオーが繋養されていた北海道の静内スタリオン・ステーションで撮らせていただいたもの。
 このとき、チヨノオーもとなりの放牧スペースにいたが、草を食っているばかりで、いいショットが撮れなかった(※馬というやつはのべつ草をはんでいるので、なかなか顔をあげてくれない)。

 親父は〝天馬〟の異名をとったトウショウボーイ。3歳(今でいう2歳)では圧倒的な強さを誇り、しかも関東馬。ダービーをとった兄よりも上、というのがもっぱらの評判だった。
 そんなのに私は興味はなかった。
 そのエリートが4歳(同じく3歳)になり、もがきはじめた。
 もがきながらも、随所できらめきを見せる。
 私はホクトオーに、いつしか惹かれるようになっていた。

 どこかしら運のなさを感じさせる馬だった。
 能力は確実にあった。
 2000年に死亡したという。
 本命ながら馬群に沈んだ皐月賞は印象に残るが、それよりも、大外からすっ飛んできた、菊花賞での豪脚(5着)が忘れがたい。

 以下は余談――。

 ところで本日、その菊花賞とか。
 競馬からは完全に離れてしまっている。
 10月に菊花賞なんて……と違和感をおぼえるほどだ。
 土曜の午後、入ったカレー屋のスポーツ紙に枠順が出ていた。
 出走馬に知った名はないが、彼らの父母、母の父になつかしい名前がある。
 そのうち、ナマで観たのはただ1頭、トニービンのみだった。鳴り物入りで来日したジャパンカップ(於東京競馬場)においてである。オグリキャップとタマモクロスが出るのでわさわざ遠征したのだった(※私はあのレース、(河内ジョッキーがふつうに乗っていれば)オグリキャップが勝ってたはずや、と今でも信じている。優勝はアメリカのペイザパトラー、タマモ2着、オグリ3着、トニービン5着)。
 そのトニービンも今は亡い。
 今回の菊花賞に出走するトニービンの孫、フォゲッタブルは、前走のセントライト記念では追い込んで3着、とデータをみるかぎり、長丁場がプラスにはたらきそうなレースをしている。
 複勝で遊んでみようか(笑)

 ■ サクラホクトオー 14戦05勝
    (父)トウショウボーイ (母)サクラセダン (母の父)セダン
 

 MINOLTA α707si
 TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO
 FUJICHROME Velvia (ISO50) 
 scanner: CANON LiDE 600F
 place:  北海道静内町(現新ひだか町)の静内SSにて
 date: 1995年09月


 【シャコンヌ狂時代】 デネシュ・ジグモンディ Denes Zsigmondy ( Z )

 

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2009年10月10日 (土)

浦霞(宮城県)でみちのくへ翔ぶ

Urakasumihiya5

 秋だからひやおろしか、ひやおろしだから秋か。
 ことによると、今が一年でもっとも酒のうまいときかも?

 なんでもいいから一本……と思いながら酒店へ。
 なつかしさもあって『浦霞(うらかすみ)』((株)佐浦――宮城県塩竃市)を選ぶ。
 『浦霞』は学生のころ、友人にすすめられて憶えた銘柄だ。
 ほろほろしつつ、二十年ちかく前に訪れたはずの塩竃の街を思い出そうとするが思い出せず。で、想いは同じ宮城の気仙沼、果てはカマつながりで岩手の釜石などへ飛んでいった。

 気仙沼の『いろり』という、ヘンコツ親父がやってる居酒屋がおもしろかった。ここは物書きを名乗っていたころ、『小説新潮』の取材で訪れた。
 ちょうど戻りガツオの時季だった。
 「これがフントのモドリだ!」
 超大盛りのカツオの造りだった。

 マッチになにやら書いてある。
 「大将、これなんちゅう意味ですか?」
 「書いてあるとおりだ!」

 「また来ますワ」
 「もう来んでいいぞ!」

 おみやげにサンマのしょうが煮をもらった。これまた大盛り(笑)

Kesennumairori12 Kesennumairori22
 今宵も酒がうまい。健康な身体で働いていれば――が標準語訳……と店主より教わった。


 また、釜石の街なかにあった呑兵衛横丁を思い出していた。
 一杯飲み屋の看板がひしめきあっているのが壮観だった。小生、オートバイなので見学しただけだったけど。

1991kamaishi50_2
 1991年08月02日 岩手県釜石市 ペンタックスのコンパクトカメラで撮影

 等々。

 一本(四合瓶)呑みきって翌日爽快。
 
   酔うてカラ瓶と寝ていたよ―― fefefe
 

 SONY α350
 SIGMA 18-50mm F2.8 EX DC
 ●『浦霞』特別純米酒ひやおろし (宮城県)
 
 ※上掲句のネタ元はもちろん、山頭火の『酔ふてこほろぎと寝てゐたよ』です。

 

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2009年9月30日 (水)

坂本九 『上を向いて歩こう』

Sukiyaki

『上を向いて歩こう』 ( 1961 )
 歌 / 坂本九  詞 / 永六輔  曲・編 / 中村八大
  (東芝音楽工業株式会社 JP-5083  EP)


 幼いころ、母親について、ひと駅離れたスーパーまでよく買い物に行った。
 親が食料品などを買いあさっているあいだは退屈なので、ほかの店をのぞいて時間をつぶした。

 2階の〝専門店のフロア〟には、本屋からスポーツ用品店まで、さまざまな店が集合している。雑貨店、今でいうアクセサリーショップなどもある。
 装飾された小箱が十ばかりならんでいた。
 オルゴールだった。
 なかに一つ、お気に入りがあって、その店へ行くたびに、そればかりいじっていた。曲がよかった。
 結びつけてあるタグに曲名が記してある。ヘンな名前だ。
 『上を向いて歩こう』――。
 そのオルゴールがほしくてならなかったが、ガキにすればやや高額な品で、そう簡単には手が出ない。

 ある日、親戚の人がウチを訪ねてきた。夏の暑い時季で、1泊か2泊して帰った。
 帰り際、小遣いをくれた。千円札を一枚。
 五百円あれば、たいていのものは買える、そんな気分になる時分の千円だ。分不相応な額と言っていい。
 あのオルゴールのことを思い出していた。

 数日後、一人で出かけた。
 すでに夕刻だった。明るいうちには帰ってこれないのはわかっていたけれども、がまんができなかった。
 スーパーに到着する。2階に駆け上がる。アクセサリーショップに直行、オルゴールを手にする。そのままレジに持って行く。
 店員が、動作確認のためだろう、オルゴールのフタを開いた。砂金のような音色がこぼれ落ちた。
 驚いた。
 『上を向いて歩こう』ではない。デザインがまったく同じで、気がつかなかったのである。

 取り替えをたのんだ。売れてしまった、と女性店員は言う。ずーっと置いてあったのに、と文句をつけた。だが、ないものはどうしようもない。
 納得できず、しばらくそこで踏んばった。店員は困ったような顔で私を見おろしていた。
 そのうちまた入ってくるから。やがて、そんななぐさめの声が聞こえた。
 ふてくされて店を離れた。

 外に出るとすっかり暗くなっている。泣きたい気持ちだった。

 ♪上を向いて歩こう
  にじんだ星をかぞえて
  思い出す 夏の日
  一人ぼっちの夜


 だいぶあとになってから、そんな歌詞を知った。あのときの自分そのものだったことに驚いたものである。

 

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2009年8月18日 (火)

great game

Kg2b6
 

 全国高等学校野球選手権大会に、兵庫県代表として関西学院(くゎんせいがくいん)高等部が出場した。

 かつて関西学院(大学)とは縁があった。
 校歌『空の翼』や応援歌『新月旗の下に』は中も高も大も同じである(※今は幼稚園や初等部もあるそうだ)。なつかしいので聴きたいものだと思った。両歌とも、入学時にたたきこまれるので、私は今でもうたうことができる。

 関学は初戦を突破した。甲子園に校歌が流れたが、私は所用でTVやラジオを視聴することができなかった。
 そして今日の二戦目、中盤からテレビ中継を観ることができた。

 関学高等部は敗れ去り、結局二度目の校歌は聴かれなかった。
 勝利に越したことはない。しかし、ソウルフルな闘いぶりに私は大いに満足した。相手は強豪校で、いわゆる〝順当勝ち〟なのかもしれない。が、観戦者に感動を与えたのはまちがいなく関学の全員野球だったはずだ。

 試合後の相手監督のコメントに腹を立てた。おのれの采配ミスの反省に終始し、それがなければ楽勝だったと言わんばかりだったからである。
 私は「こんなデリカシーのないやつが監督やってるのか!」とテレビに向かって吠えた。「こいつは人間ができていない!」と毒づき、すくなくとも教育の現場には不適な男だと結論づけた。
 その点、関学の広岡監督は謙虚だった。「関学は予想以上によくやった、と観ている人は思ったのではないか」と、そのなかに自身をもふくめたうえでそう語り、誇りをただよわせていたのである。

 自分のそんな過剰な反応に気づき、試合に熱狂させられていたことに気づいた。
 おそらく、ひさしぶりに観た高校野球が、高校野球らしいひたむきな野球、次を考えない全力を尽くした野球だったのがうれしかったのだろう。

 ありがとう、関西学院高等部野球部員諸君。
 中退した学校(の関連機関)とはいえ、なんとなく忠臣蔵の不破数右衛門の心境で応援した。
 すばらしいゲームだった。


※写真は関西学院の校章。
 高校の大先輩で、ちゃんと関学を卒業された方が、何年かまえにくださったもの。
 学生時代にもっていた校章を、中退後も思い出として保管していたが、いつしか紛失してしまい、残念がっていたのだった。当時私がもっていたものは銀色だったような記憶があるが、これは真鍮のような色をしている。
 初戦での『空の翼』と『新月旗の下に』はYouTubeで視聴できました。
 

 SONY α350
 TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO

 

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2009年8月 2日 (日)

my nostalgic 12 - 丘のまち

Biei1990s6

 

 美瑛は〝丘のまち〟と呼ばれる。
 最近、このあたり(※となりの上富良野)に観覧車が出現したらしい。これを決定した連中はいったいどういう脳ミソをおもちなのか。信じられない愚行である。

 90年代に撮ったポジを起こしたもの。四隅の黒ずみは「ケラレ」といって、レンズ先端に装着したフィルターが(厚みがあるために)、画面に干渉して発生する現象。
 

 MINOLTA α707si
 MINOLTA AF24-85mm F3.5-4.5
 place: biei, hokkaido
 date: 1990s
 


 【シャコンヌ狂時代】 巌本真理 Mari Iwamoto ( I )( 1949)

 

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2009年7月24日 (金)

my nostalgic 11 - 忘れ得ぬ人 in Hokkaido( 2 )

Onsenryonin6

 池田一行さんといって、自称〝温泉旅人(おんせんりょにん)〟。
 全国の温泉という温泉を巡りに巡って、その数や3000を超えるという。
 それだけにとどまらない。『これが温泉だ!』という本を自費出版。現物をみせてもらったが、すばらしい仕事だった。
 すべてをみずから撮り、みずから書いている。おのれの皮膚で感じた温泉の印象をストレートに書き表した力作で、そんじょそこらのガイドブックなどとは次元が違っていた。
 さすがは旅人だけあって、ネット上では、旅先などで池田さんと出会った方々の記述がちらほら見られる。

 耳をかたむけているのは、茨城のIさん。茅葺き屋根の職人をしておられる。ここ(然別峡野営場)で出会い、晩餐をともにした。
 一泊のつもりが、翌朝、池田さんと談笑するうちに時間が過ぎ、また、ほかのキャンパーらと仲よくなったりして、ともに連泊することになってしまった。

 とにかく、池田さんの温泉にかける情熱には、口先ではないほんものの迫力があった。
 なにかに打ちこめることのすばらしさを、その気魄で教えてくれた。
 まさに「温泉旅人」である。

 露天(野天)風呂に入るたびに、温度計を握りしめた池田さんのことを思い出す(笑)。
 

※国設然別峡野営場はこの年(すなわちこの直後)、台風によって壊滅的な打撃を受けた。魅力的な森林は消滅してしまい、ただの山間広場になってしまった。
 

 date: 2006年09月

 

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2009年7月15日 (水)

my nostalgic 10 - 忘れ得ぬ人 in Hokkaido(1)

Abashiri6  

 2年前、網走のキャンプ場で隣同士になった方です。
 このとき、67歳。宝塚市仁川在住。
 仕事をリタイアしたのち、12年連続の北海道。キャリア(荷台)は特注。
 滞在予定は40日間とおっしゃっていた。
 スイス、ニュージーランドにも行かれたそうですが、それでも北海道が色あせることはなかったとのこと。
 こういう元気人、ホンモノのアウトドアマンに遭えるのが、私にすれば、北海道の魅力の一つ。自分など、まだまだ青い、と思わされ、元気が出る。

 師匠、無断掲載スミマセン。今も元気で走ってはるかなァ……。
 

Abashiritent6

 このときのわがキャンプ風景。上の写真の方のテントは、私の立ち位置からさらに後方。ソロキャンパーは、お隣さんとベッタリくっつかないものである。くっつきたがるやつもいるが……。

 
【網走呼人浦キャンプ場】
 キャンプ場の評価としては(中)というところだが、タダなので文句はいえぬ。ひとつ言わせてもらえれば、トイレの個室が一つしかないのは、自分としてはヒジョーに心もとない。シーズン中ならたいへんなことになってしまいそうだ。

 

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2009年7月 7日 (火)

Yさんとの思い出 - パット・メセニー 『トラヴェルズ』

 

Pattravels3

 

 ふと、どこかへ行きたくなる――。
 そんなときに浮上してくるのがこのアルバムだ。
 逆に、これを聴くとどこかへ行きたくなる、というものでもある。


 酒場でバイトしていた学生時代、店の客で顔なじみだった大阪大学の大学院生Yさんに連れられて、千里山(関西大学近く)の《華》という居酒屋へ行った。
 私は関西学院大の学生で、Yさんは阪大である。それがなぜか関西大エリアの居酒屋だった。バイト先からは、かなり距離があった。
 そこで、Yさんの後輩Oくんが合流した。大阪外大を中退して就職活動中という男で、その酒場からそれほど遠くないところに住んでいた。私は、Oくんとは初対面だった。
 3人で、そのころはマイナーだった芋焼酎をガンガン呑み、Oくんの部屋で続きをやろうとなった。
 Oくんの住まいであるマンションのバルコニーは、『さつま白波』の空瓶で埋めつくされていた。50本くらいはあったのではなかったろうか。

 前置きが長引いた。
 その部屋でOくんが流していたBGMがこの『トラヴェルズ』だった。

 朝まで呑んだのはまちがいないが、どうやって帰ったのかは憶えていない。
 それでもこのディスクのことを思い出したのは、自分の学生手帳に、乱雑な文字でアルバムのタイトルが書かれてあるのをあとで発見したからである。
 それを記したことも記憶になかった。だが、気に入ったという印象だけは、かろうじて残っていた。
 私はCDを買うことにした。関学の生協で購入したはずである。


 Yさんは、その後英米へ留学したらしい。だいぶ経ってから、テレビに出ているのを偶然観た。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で働いておられた。カブール事務所の所長をされているか、あるいはやめられた直後ではなかったか。911後、にわかにアフガニスタンが緊張しはじめたころで、それについて語っていらした。
 私はつい笑ってしまった。Yさんはやや酒乱の傾向があった。それがすまし顔で、深刻な問題について淡々と解説していたからだった。

 Yさんの引っ越しを手伝ったことがある。私のほかに、何人か友人らがかり出されていた。男一人分とはいえ、書物の量がハンパではなかった。その夜もやっぱりあの《華》へ行った。
 またある日の夜遅く、店にYさんが来て、今からウチで呑むから来い、と言う。私はバイトが終わってから、Yさんのアパートへ行った。
 宴会が始まっていた。阪大の学生が5、6人おり、みなおとなしく呑んでいた。すると、酔ったYさんが突然、腹を立てはじめた。「おまえら、暗いんじゃ!」、そう言って一人の学生をげんこつで殴ったりした。
 私は阪大とは無縁で、いわば彼らの輪の外から来た人間だった。おもろいとは思ったが、このまま傍観するわけにもいかない。
 だれも止めそうにないので、私がYさんを羽交い締めにして抑えた。するとYさんがまた怒った。私にではない。むしろ、私はほめられた。「身体をはって止めるんはこいつだけや! おまえら根性ないんや!」と学生らに向かってわめきちらした。たしかに、我関せず、といった感じの連中だった。
 卒業したら(※そのころは卒業するつもりでいた)記者になるつもりだ、と言うと、これくらい読んでおけ、と言って、林達夫や、宮武外骨の本をくれたりした。
 ロバート・B・パーカーの『愛と名誉のために』をすすめられたりもした。主人公が、酒に酔ってベロベロになるシーンがある。私はカウンターでYさんが『火宅の人』(壇一雄著)を読んでおられたのを記憶している。のんべとはそういうものなのだろうと今、思う。

 そんなことを思い出すと、やたらなつかしくなって、なんとか連絡をとりたいと思い、あちこち電話してみたが、自分がどこの馬の骨やらわからぬせいか、埒が明かない。そこで、世話になっていた新潮社の編集者に、UNHCRへ電話を入れてもらった。新潮社の看板なら、という計算があった。
 しかし、「Yさんがどこにいるのか事務所でもわからない」とひどく合点のゆかぬ回答で、埒が明かぬことに変わりはなかった。
 後日、朝日新聞(関東版)の「ひと」欄にYさんが出たのを知った。朝日新聞社に電話し、あれこれと事情を話して、Yさんのメールアドレスを教えてもらった。今ほどには、個人情報の管理にうるさくなかったようである。
 私はメールを送ってみた。しかし、返事はかえってこなかった。

 その後しばらくたってからだったか、『カブール・ノート』というYさんの本が出て、評判になっていた。版元の幻冬舎の人間とは名刺交換程度ならやっていたが、それだけで「たのむワ」とは言いづらく、『カブール・ノート』についても、そのうち手にしようと思いつつ、そのままになってしまった。


 いろんなひとと遇った。
 忘れてしまった出会いもあるだろう。
 Yさんのことを忘れられないのは、芋焼酎の魅力を教えてくれた人だからである。当時は、イモ愛飲派はごく少数で、芋焼酎自体を置いていない店も多かった。
 それを勧められて、呑むようになった。
 あれから20年が経つ。
 ネットで検索してみたら、Yさんは現在、国連の関係機関の職員をされているようだ。
 もはや、連絡をとろうとは思わない。お元気であればそれでいい。


 『トラヴェルズ』のことをさらりと書くつもりが、豪快に脱線した。
 人生はトラヴェルズ――。
 人と出会い、音楽と出会う。
 あの日、あの人と出会わなければ、この曲とも出会っていなかった――そんなことがあるものだ。

 ひさしぶりにこのアルバムを聴きながら、焼酎あおってみますかネ。
 そしてオレは、やっぱりどこかへ行きたくなるんだろうナ。


 ◆トラヴェルズ / パット・メセニー・グループ・ライヴ (ECM J58J 20083/4 CD-JAPAN)

 

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2009年6月13日 (土)

baseball

Tanbo58bw

 

 SONY α350
 TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO
 place: toyonaka, osaka

 

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2009年5月 3日 (日)

RCサクセション 『トランジスタ・ラジオ』 - 追悼 忌野清志郎

Rctr0158
 

Rctr58
 

 〈以下は、本館に保管していた雑文の再掲載です。〉

  ♪WOO 授業をサボッて
   陽のあたる場所に いたんだよ
   寝ころんでたのさ 屋上で
   たばこのけむり とても青くて
   内ポケットに いつも
   トランジスタ・ラジオ

   ――詞・曲 / 忌野清志郎 G.1,238, 471  編 / RCサクセション

  ……………………

  中学生か高校生らしき少年が、退屈な授業をすっぽかしてラジオを聴いている。それも国内の放送ではなく、海外放送のようである。最新のロックに夢中なのだ。はやいとこ、こんな学校出て……と大きな夢を思い描いているとも想像される。で、音楽に集中しているかと思えば、ちゃっかり彼女のことを思い浮かべたりもする。

「今から××(※教師の名)やな、天気もええし……やめとこか」
 そんなことをほざき、ツレと学校を抜け出す。喫茶店に行こうにもカネがない。で、缶ジュース買って、校庭の隅とか、近所の公園のベンチで、クソ生意気にもタバコ吸いながらチンタラする。そんな経験はだれにもあるにちがいない。

 青春をテーマにした唄はたくさんあるが、どれにもこれにも、大なり小なりつくりものくささがあるものだ。その点、『トランジスタ・ラジオ』は自然そのもので、違和感がなく、まさに着古した学生服のようなフィット感があった。
 私にとって、不滅の青春ソングである。ラジオといえば夜、と思いがちなところ、この唄は真っ昼間からラジオときた。そこもいい感じ。

 


 『トランジスタ・ラジオ』を、私の〝不滅の青春ソング〟と書いた。
 すぐれたミュージシャンはすくなくない。だが、そんな唄を残してくれるやつなんて、そうしばしば現れるものではない。

 キヨシローが燃えつきた。

 酒だ。酒しかない……。


  RC SUCCESSION: 『トランジスタ・ラジオ』 ( 1980 )
   (Kitty RECORDS 7DK 7002  EP)
 

 SONY α350
 SONY α50mm F1.4(SAL50F14)
 TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO

 

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2009年4月30日 (木)

my nostalgic 09 - 尾崎亜美さん

 ほったらかしにしてあったカメラのなかに撮影途中のフィルムが入ったままだった。
 電池切れで巻き取れなかったためである。わざわざ新電池を購入&装填するのを面倒がったのだった。
 ずっと気になっていて、今日、ついに現像に出した。DPEショップへカメラごと持ちこみ、電池が切れてるのでそっちでうまくやってくれ、とたのんだ。
 手動で巻き取ることになり、「フィルムにキズがつくかもしれん」とのことだったが、私は「いくらフタを閉じたままだったとはいえ、もうダメか……」と半分あきらめており、つまりダメモトだったので、「かまわない」と応えた。
 すると……ドッコイ、ちゃんと写っておりました。
 つまり、この写真が(今のところ)私の最後の銀塩写真ということになります。

 2003年に大阪南港のATCでおこなわれた尾崎亜美さんのミニライヴを聴いた際、撮らせていただいたものです(※当日は撮影禁止となっていないようでしたので……)。
 亜美さんがライヴをやるという情報を得、ツーリング気分でオートバイにまたがり、(最近話題の)南港ATCまで行きました。
 もっといいカットがあったのですが、その部分のネガ自体が変色、というか退色して、夜間コンサートみたいになってしまっていた……残念。
 とはいえ、これら2枚もたいがい色あせてますけども。

 第2回「音楽の祭日」ATCオズミュージックフェスティバルにて (2003年06月21日)
 

Ao9583 
 

Ao10t582

 

 私は彼女のアルバム『プリズミイ』を今でも愛聴しています。
 

 MINOLTA α707si
 TOKINA AT-X Pro AF80-200mm F2.8
 KODAK GOLD 400
 scanner: CANON LiDE 600F
 place: ATC, osaka

 
 

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2009年4月24日 (金)

my nostalgic 08  - 裏銀座縦走の思い出

 ここ最近、過去のネガをスキャナーで写真に起こし、パソコンで整理するという作業をのんびり進めている。
 出てきたものを、ついでにネタにもしてみるのである。


 信州・北アルプスにはいろいろなコースが用意されている。
 このときたどったのは〝裏銀座コース〟。
 前年、中央アルプスを単独縦走しており、ステップアップしたつもりの登山だった。
 日時は2002年08/28-09/03、ルートはざっと次のとおり。

 新穂高温泉→●双六岳→三俣蓮華岳→鷲羽(わしば)岳→水晶岳→●野口五郎岳→●烏帽子岳→不動岳→七倉乗越→●船窪野営地→北葛岳→蓮華岳→針ノ木岳→●大沢小屋前野営地→扇沢 (●=泊)

 テント泊の単独行である。
 気まぐれにしか登山をやらぬ者には、文字どおり、やや荷が重かったかもしれない。
 とにかく、しんどかった……。
 たしか荷物は、絞るだけ絞り、それでも水抜きで18キロだったように思うが、途中で遇ったヤツは30キロを担いでいた。そいつもしんどそうだったな。
 〝表銀座〟はすでに踏破していた。〝裏〟のほうがよっぽどキツいし、コワい。が、そのぶん達成感もまるで異なる。個人的には〝裏〟のほうが好きである。
 百名山の水晶岳(水晶小屋)あたりまでは人も多い。だが、その後野口五郎方面へ歩きはじめると、ほとんど人の姿を見かけなくなった。
 

40_5  40_3
 ↑(左)双六岳で一泊す。山吹色のテントがワタシのもの。 (右)三俣蓮華岳の三俣山荘前から槍ヶ岳を望む。
 このあと、鷲羽岳&水晶岳と続く。水晶岳はちょっとだけコースをはずれることになるので、分岐の水晶小屋に荷物を置いておき、空荷で登った。
 

P40_2  02p40
 ↑野口五郎岳。(左)すでにシーズンオフか、だれもいない。 (右)北アルプスの夕映え。アーベントグリューエン(=「夕刻の栄光」)という。

 野口五郎小屋はすでに営業を終了していたので、登山客はおらず。テントも私のひと張りのみ。みごとなアーベントグリューエンを独り占めだ。写真は、色あせているのではない。このように黄金色に染まる現象なのである。夜は風がめちゃめちゃ強かった。
 

40_2  P40

 
 船窪野営地は「テントを張ってよい」というだけの広場。粗末なトイレ、涌き水がある(ちょっと危険な場所にある)。
 有料となっているが管理人はいない。どうなっとるのか、と思っていたら、暗くなりかけたころ、集金人が来た。その先にある船窪小屋からやって来るのである。かなりの高低差がある。利用料金は500円だったと記憶するが、それだけのためにご苦労さまなことだと思った。
 水場から帰ってきたらその人はいた。外人サンだった。アルバイトという。ニコニコしている。ここまでの道のりをまったく苦にしていない。
 それもそのはずで、その人はネパールのシェルパ族だった。エベレストをマクラにしている民族にすれば、この程度はタバコを買いにゆくくらいのものらしい。
 写真を撮っとけばよかったと悔やむが、もうバテバテでそれどころではなかったようだ……。
 

40  40_3
 ↑北葛岳と蓮華岳のあいだには〝蓮華の大下り〟がある。500メートル以上の高低差だ。私の場合、これを逆に登る。大上りである。


 蓮華岳はコマクサの群生地。9月であり、すでにその時季を終えていたが、咲き残りがまずまず観られた。最盛期はさぞかしと思われる。
 前から観たいと思っていた白いコマクサを発見し、驚喜す。
 

Komakusawhite0158
 ↑白いコマクサはめずらしい。

 その後、針ノ木小屋から下山開始。大沢小屋のキャンプスペースで最後のキャンプ。ひさしぶりに缶ビールを飲んだ。だが、それよりも好きなだけ水が飲めるよろこびのほうが大きかった。
 翌日、扇沢に到着。縦走を完遂した。

 だが、旅はまだ終わっていなかった。
 その足で松本へ向かわねばならない。
 夜、松本で小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラによるベートーヴェンの『第9』を聴くことになっていた。そもそも、このコンサートに合わせて登山計画を立てていた。
 無理のない行程を組んだつもりも、一日でも遅れれば、高額チケットがフイになる。おかげで集中力が高まったかもしれない。
 

Sko0240
 ↑朝の6時。大沢小屋のキャンプ地にて。ここから扇沢までは平坦路。危険な場所はない。どうやらコンサートには間に合いそうだ。
 

40
 ↑ゴール。感動で全身がしびれる。

 
 
Skobee920 風呂になんぞ入っていない。汗が乾き、塩昆布人間のようになっていた。
 信濃大町から松本まで、電車内ではドアの隅っこに張りついていた。そうとうに汗臭いはずだった。
 松本駅そばのコインランドリーで服を洗い、銭湯に入って、登山靴のまま会場の《長野県松本文化会館》へ乗りこんだ。
 不思議に疲れはなく、眠気にも襲われずに全曲聴き通した。
 小澤の指揮よりも、東京オペラシンガーズの合唱のほうが印象に残っている。
 このときの演奏はCDになった。記念品としてもっているものの、残念ながら、たいしたものではない。
 20歳ごろに大阪で聴いた小澤&新日本フィルの『第9』がすばらしかったので、あれをもう一度、という願いが私にはあった。だが、ついにあのときほどの感動を味わうことはできなかったのだった。
 松本駅前の居酒屋でビールとウィスキーを飲んだあと、今はなき夜行の『ちくま』で大阪へ帰った。

 裏銀座縦走後はしばらく、「これで当分アルプスはエエワ」と思っていた。実際、あれから一度も登っていない。
 私は、ホントは高いところがニガ手である。なのに最近、またなんとなく血がさわぎはじめている。

 山行は、オートバイ・ツーリングにはないものをくれる。
 私は夏山しか登らないし、「趣味は登山です」と言えるほど熱心ではないが、あのだれもいない尾根をモクモクと進むときに、「オレ、なんでこんなことしとるんや?」……ふとよぎる想い、そしてそれを追っかけるように湧いてくる自虐的な滑稽さがよかったりする。
 「吾輩はアホである」と、そう自覚したときによろこびを感じる。われながらケッタイな性分だ。だが、それが人間というもの、男というイキモノなのかもわからない。

 メシは乾燥ライスとしそのふりかけ、パンと蜂蜜だった。
 毎度それだと、さすがに飽きるときがある。そのために袋麺を一つだけもっていた。2つに割り、それぞれを烏帽子岳(烏帽子小屋)、大沢小屋で食った。それが叫びたいほどのうまさだった。
 そんなことを今、思い出した。
 

 MINOLTA α707si
 TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO
 place: nagano

 

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2009年4月21日 (火)

my nostalgic 07 - straight road

Hk980301b58

 薫別温泉(道東)近くだったと思う。
 この道、この空……北海道だ。

 こんなダートの直線をブッ飛ばすと気持ちがよさそうであるが、私は〝トコトコ派〟なので、風景を愉しみながら、のんびり行く。
 ダートを走ると、舗装路とは違い、地面から大地の鼓動のようなものが伝わってくるような気がする。

 この10年で、道内のダート道は、次々に舗装されてごっそり減ってしまった。オフロード・バイクは少数派となり、スクーターや、ハーレーなどの大型バイクが増えた。

 撮影は1998年。
 このとき出会ったライダー、Rクン(※女性です)とは今も年賀状の交換をしている。旅先で知り合い、これほど長く続いているのは、ワタシにはきわめてめずらしい……というより唯一のケース。

 また行きたくなってきた……。
 

 ペンタックスのコンパクトカメラ
 フィルム不明
 date: 1998年09月初旬

 

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2009年4月18日 (土)

『サントリークォータリー』休刊

 サントリーの広報誌、『サントリークォータリー』が休刊するという記事に接し、なんとなくビールが飲みたくなった。
 実際、飲みましたけどね、ヤキトリの缶詰で。
 休刊とはいいますが、どうなんでしょうね、再出発したら、名前は変わるでしょうな、たぶん……。

 書かせてもらったことがあるんです。2回だけですけどね。
 その1回目の仕事で、生まれて初めて沖縄に行った。
 なにしろ、ワタシはそれまで、47都道府県のうち、唯一沖縄だけを踏んでいなかった。ことさらに印象深いんですな。
 ワタクシごときに話がきて、しかも校了までそれほど日がない。「ドタキャンでもありましたか?」と訊き返したのを今でもよう憶えてますよ。

 その次の仕事のとき、衝撃的なよろこびがあった。
 ちょうど来日中だったか、直前だったかの、ウィーン・フィルの公演チケットをくださった。唐突にくださったんです。サントリーは文化事業に力入れてましたから、ウィーン・フィルとも関わりがあったんですね。

 「秋山さん、クラシック、好きですよね?」「ええ、まあ……」「ウィーン・フィルのチケット、あるんですけど、よかったらどうですか?」「いくらですかね?」「いえ、プレゼントです」

 あんなこと、もうないでしょうな。それにしても、あれはうれしかったねえ。なんでワタシがクラシック・ファンというのを知ってはったんやろか。沖縄取材のときに、そんなことをしゃべったのかもしれませんですね。
 指揮はリッカルド・ムーティ。ショスタコーヴィチの『第5』とシューマンの『第2』をやった。ムーティは、羽賀研二に似ており、愛想のない男でしたが、シューマンはなかなかよかったです。
 ワタシにはそれ以前に、クライバー&ウィーン・フィルのチケットを押さえておきながら、クライバーが急病、来日とりやめになり(※代打シノーポリ)払い戻した――という経験がありましたから、とにかく、ウィーン・フィルを聴けたのがうれしかった。

 まァ、そんなことよりもね、とにかく気持ちのいい人たちと仕事ができた、ワタシにはそれが忘れられないんです。
 2回のおつきあいで、なにか、私がやった仕事以上のものをもらった気がしますね。
 だからというわけでもないが、自分で買って飲むビールは、サントリーのプレミアム・モルツと決めている。

 お世話になったUさん、Yさん、その後退社されたらしいけど、お元気でしょうか。カメラマンのSさんもどないしてはるかなァ……。

 なんか、遠い昔のことのようです。
 最近、さびしいこと、目につくな……フェスティバルホールとか。
 トシ食ったんでしょうね、それなりに。
 

Sq03  

 SONY α350
 SONY α50mm F1.4(SAL50F14)
 ※新聞は《朝日新聞》


 【シャコンヌ狂時代】 イゾルデ・メンゲス ( M )

 

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2009年4月17日 (金)

my nostalgic 06 - レンゲ今昔

258

 15年くらい前、和歌山で撮ったもの。あとにもさきにもこれほどすばらしいレンゲ畑を観たことがない。
 はいつくばってカメラをかまえた瞬間、目前でなにかが飛び出した。キジだった。
 山間の小さな集落で、場所はわからない。印をつけておいた地図を盗まれてしまったのである……痛い。
 もう一度訪れてみたいのだが……。
 

0158

 10年前、京都の旧京北町で撮ったもの。昔はこんな感じがふつうだったのに……。
 この畑も年々花の数が減少して、近年はすみっこにチョロチョロ状態である。
  

 MINOLTA α707si
 TOKINA AT-X AF100mm F2.8 MACRO
 KODAK GOLD 100
 scanner: CANON LiDE 600F
 date: 1995年ごろ(上) 1999年(下)
 
 
 

Renge09hashirii0658
 

 前回分より追加。
 今ごろ見ごろか。
 正しくは「レンゲソウ」らしいが、「レンゲ」でよろしかろう。「れんげ」のほうが字面はいいか……。
 

 SONY α350
 SONY 135mm F2.8[T4.5] STF (SAL135F28)
 place: 大阪府豊中市走井
 date: 2009

 

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2009年3月31日 (火)

遠い記憶

Icet583
 

Kusabue58

 アイスクリーム、草笛……。
 我知らず、あのころの自分を重ね見ていた。

 

 SONY α350
 TOKINA AT-X Pro AF80-200mm F2.8
 place: 服部緑地(大阪府豊中市)

 

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2009年3月18日 (水)

夢への階段

Ueno0158

 
 昔、名神高速のガード下でよく遊んだ。

 高速道路というものは橋脚、あるいは盛り土で支えられている。
 私たちがホームグラウンドにしていた公園は、ちょうどその盛り土が途切れたところにあたっていた。
 盛り土の斜面の一部には、このような板チョコを想起させるコンクリート・ブロックが貼りつけてあり、それを足がかりにして、軌道のそばまで登れた。
 そこからさらにアブナイ箇所をクリアすることで、防音壁の隙間などから高速を行き交うクルマを間近に見ることができるのだった。
 そこにはうまい具合にやわらかい草がはえていて、腹ばいになることができた。
 仲間とそうやって寝そべり、好きなクルマが通過するのを根気よく待つのである。

 マツダの「コスモスポーツ」とかトヨタの「スポーツ800(通称〝ヨタハチ〟)」、ニッサンの「スカイラインGTR(ハコスカ)」などが人気だった。私はホンダの「S800」が好きだった。
 いずれもミニカーやプラモデルでしか知らぬ憧れのクルマであり、実物など、見たくてもかんたんには見られない。そんな夢を叶えてくれるのが高速道路だった。

 一度だけ、トヨタ2000GTを目撃したことがある。
 みんながいっせいに喚声をあげた。それこそ、ほんの一瞬の出来事なのに、いまだにその情景が忘れられない。

 そんなことを思い出してみれば、この〝板チョコ〟は、ちょっとした夢への階段だったと言えそうである。
 

 SONY α350
 SIGMA 18-50mm F2.8 EX DC
 place: 中国自動車道高架下(大阪府豊中市)

 

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2009年3月12日 (木)

続々・メタルインドカレー - レトルトパック登場

Metal0358

 メタルインドの需要、および供給がかなり安定してきたらしく、なんと、あのナツメロ(※♪メタル~インド~カレェ~……というやつ)さえ聴かれるようになっている。テレビCMが流れているのだ。
 テレビ嫌いな私ですら、あのフレーズを耳にしたということは、その確率を考えると、なかなか積極的に活動しているようであり、ひじょうによろこばしきことであるが、それによって、メタルインドの魅力の一つであるマイナーぶりが色あせはしまいか、という懸念もある。
 いずれにしても、あのフレーズが21世紀の薄型テレビから流れ出してくるとは、まことに感無量というほかはない。
 そんななか、メタルインドのレトルトパックが登場。それを安売りスーパーにて発見し、さっそくゲットした。購入価格は78円だったか79円だったか、そんなところである。これはじゅうぶん百均圏内の価格設定であるから、遠からず巷間の百円ショップで出くわすことになるかもしれない。
 
 結論から述べると、このレトルトメタルは「問題あり」といわざるをえない。
 ちなみに、私の買ったものは〝辛口〟である。
 メタルインドの魅力は、マイナーであること、とびきりうまいわけではないこと、色が今どきめずらしくライト・イエローを呈していること……などなど、ある種のもの足りなさ、B級ぶり、マイナス面が時代に逆らった個性を発揮しており、玄人受けしてきたヒミツであるのだが、このレトルトは、固形版よりも複雑な色――つまり明るい黄色ではない――をしておるうえ、味にしても、「いかにも」なものに仕上がっている。いわばよそ行き、メジャー志向がみてとれるわけで、これは誤った方向である、と製造・販売を手がける大同株式会社には指摘しておく必要がある。
 つまり、「もの足り」ているのである。固形版にくらべて、無個性にまとまっているのが、私にはおもしろくなく、潮流に迎合しているような、地元企業が本社を大阪から東京へ移してしまったようなつまらなさを覚えた。

 さらに不満爆発なのが、このデザインである。とくにその配色だ。赤が基調になっている。なんだんねんこれは? メタルインドならベタベタな黄色と茶色の2色でアピールしなければならないはずではないか……とヒートアップしかかったところで、ひとまず冷静になり、大同株式会社のHPをのぞいてみたところ、中辛も出ており、そちらはほぼ文句のないものになっていた(※茶色がちょっと薄いが)。
 ただ、インド人らしきイラストが描かれているのが、さわやかすぎる。これももっと謎めいた、「怪しいインド人」にすべきだ。
 辛口にしては、香辛料の攻撃力はきわめて低劣で、このあたり、さすがはメタルインドともいえる。

 とにかく、もっとB級色を強めてもらいたいものだ。これならまだ、ボンカレーのほうが昭和の風味をたたえているかもしれない。
 このレトルト版メタルインドは元来の函入りメタルインドとは似て非なるもの、別ものといってよろしかろう。
 メタルインドを愉しみたい者には、なかでもメタルインド入門者へは、このレトルト版は余計な寄り道になり、誤った認識を植えつけてしまうに違いない。函入り固形ルウのなかにこそ、メタルインドの真髄は隠されている――と言っておきましょう。


【参考】
 メタルインドカレー → 
 続・メタルインドカレー → 

 SONY α350
 SONY α50mm F1.4(SAL50F14)

 

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2009年3月11日 (水)

my nostalgic 05 - 初めて一眼レフ

Sadoakadomari581 
 
 長良川源流にあたる蛭ヶ野というところへ行った。キャンプ場があり、水が美味い。
 そこで2日ばかりキャンプをして帰る予定が、2日目の朝、唐突に、行ったことのない佐渡島へ行きたくなった。
 急遽予定を変更、キャンプを撤収し、蛭ヶ野を発った。新潟か長野(ちょうど県境あたり)での一泊をはさみ、佐渡へ渡った。

 トキ保護センターを見物したりしながら、島を一周した。まだ2羽のトキ(※ミドリとキン)が存命中だったころである。
 見学者とトキとのあいだにはかなりの距離がとられており、肉眼では見えなかった。望遠鏡で観られるようになってはいたが、そんなもんで観たところで……とテンション上がらず、結局観なかった。

 佐渡では2日間の滞在だった。ドンデン高原で一泊し、赤泊港でもう一泊。写真はその赤泊での夜明けである。
 それ以前も、その後もいろんな場所で夜明けを迎えたが、こんなに美しい朝をいくつも思い出せない。
 ネガは変色してしまっているが……。

 実は、生まれて初めて一眼レフを買い、初めてそれを携行してのツーリングだった。
 このときはまだ「露出ってなにさ」のレヴェルである。絞りを開くと速いシャッターを切れるが被写界深度が浅くなる……とか、暗いときには高感度のフィルムを使う……とか、入門書でにわか仕込み。現場では、頭ではわかっていても、うまくできないことのほうが多かった。それでもいろんなものを撮った。
 果然、失敗があった。

 県境のキャンプ場で、たまたま出会った青年との記念写真が、露出不足で真っ黒なのが今も痛い。なにかの拍子に、ダイヤルがマニュアル(※つまり絞りもシャッターも自分で決めるモード)になっていたらしかった。デジカメだとその場で確認できるので、今ならこんなミスは起こりえない。

 だいたい、キャンプで出会った人間とは、住所の交換はおろか名前すら訊かぬことが多く、当然、その後会うこともない。ふとした偶然から、意気投合したり、印象深い話をしたりした相手の写真はもっていたいものである。

 キャンプ場利用者は私たち二人しかいなかった。彼はみやざきくんといい、テンカラ釣りに凝っていて、その話をしてくれたのをよく憶えている。
 また、キャンプ場の名を思い出せない。新潟と長野の国境、平岩のあたりにあったはずだが……。

 みやざきくんとは翌朝、国道148号線に出たところで別れた。手を挙げて合図を送ったとき、彼が私に向かってカメラを向けていたから、ひょっとすると現在、彼のアルバムのなかには、あのときの自分の写真が収まっているかもわからない……とそんな想像をしてみるのは愉しいことだ。
 

 MINOLTA α707si
 MINOLTA AF24-85mm F3.5-4.5
 KODAK GOLD 100
 scanner: CANON LiDE 600F
 place: akadomari, sadogashima, niigata
 date: 08/1994

 
  

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2009年3月 5日 (木)

メンチャイ

Hudecek29 Tretyakov29

 ひさしぶりにメンチャイを聴いた。

 クラシックを多少なりとも好きな人には説明を要しないだろうが、そうでない方には、なんのこっちゃわからんだろう。「だれや、それ。タイ人か?」と、そんな声が飛んでくるかもしれない。
 これはタイ人ミュージシャンの名ではなく、メンデルスゾーン&チャイコフスキーの略。
 アナログの時代には両作曲家によるヴァイオリン協奏曲をレコードの裏表にしたのが人気だったのである。
 この種の黄金の組み合わせは、ほかにベートーヴェンの『運命』とシューベルトの『未完成』というのがあって、人気の点では、むしろそっちのほうが上だったかもしれないが、〝ウンミカ〟とかそんな略称で呼ばれることはなかった。

 両曲とも、クラシックではきわめてポピュラーな作品だ。名盤が多数出ているが、私の好きな演奏は、〝メン〟は旧チェコスロヴァキアのフデチェック、〝チャイ〟は旧ソ連のトレチャコフ、となる。
 ちなみに今年(2009)、メンデルスゾーン生誕200年ということです。

 フデチェックのメン・コン(※これまたメンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトの略)は、FMラジオからエアチェックしたやつを、中学から高校を卒業するころまで聴きつづけていた。
 写真(左)のLPは、数年前、ひさしぶりに聴きたくなって手に入れたもの。案外、かんたんに手に入った。人気がないからだろう。CDでもいっとき出ていたようだが、すでに廃盤のようである。
 フデチェックのヴァイオリンは繊細で、まじめな学生ふうであるが、バックをつとめる老匠スメターチェクがえらくはりきっていて、ひじょうに愉しい。第3楽章冒頭のティンパニをかなり強く鳴らしているのが記憶に残っており、それをこのLPであらためて聴いて、ひどくなつかしかったものである。


 一方の〝チャイ〟、これはトレチャコフのデビュー当時の録音を最高としている。
 これについてはコチラですでに触れたので詳細は略。
 レコードについて記しておくと、ずっと日本ビクターが発行した国内盤で聴いていたが、あとになってメロディアのオリジナルを手に入れた。写真(右)がそうである。
 これを上まわるチャイ・コンにはまだ出会えていない。


 二人とも、これらをレコーディングしたのは20代前半。そして、聴いていた私は10代だった。


 Mendelssohn: Violin Concerto in e minor, Op. 64
  Vaclav Hudecek (vn)  Vaclav Smetacek & Prague Radio Symphony Orchestra
  ( panton 11 0511  LP )

  Tchaikovsky: Violin Concerto in D major, Op. 35
  Victor Tretyakov (vn)  Neheme Jarvi & Moscow Philharmoic Symphony Orchestra
 ( MELODIYA C 01683-4  LP )
 

 SONY α350
 SONY α50mm F1.4(SAL50F14)

 

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2008年12月29日 (月)

さよなら、フェスティバルホール

Festatsu0258
  

Fes0658
 

 12/28、山下達郎のライヴを聴いた。私は12/18にも聴いているので、今ツアー2度目となる。
 しかし、この日は特別な意味があった。
 彼にとっても、聴き手である私にとっても最後のフェスティバルホールとなったからである。
 要するに、「フェスを残せ!」という共有の、しかしむなしいことは重々わかっている叫びがあり、それが最高潮に達した日だったワケだ。
 今回のタツローのツアーは、フェスティバルホールが年内で最後、というのが大きな動機になっている。彼自身がそう公言している。

 フェスにおける興行は29日、30日の大阪フィルによる『第9』ですべて終了となる。
 白状すると、私は、正真正銘のファイナルである30日の『第9』チケットをダフ屋から入手してでも聴くつもりになっていた。
 もはや現役指揮者による『第9』に興味はなく、見送っていたのが、ここに来て、私が最初にここで聴いたのは1975年12月、ちょうど33年前であり、そのときも、大フィルの『第9』だったので(※指揮はハンス・ブリューマーという人)、最後もやはり『第9』で……という思いが強まってきたのだった。
 だがゆうべ、コンサート会場をあとにしたときには、もうそんな気は雲散霧消していた。これを自分の最後のフェスの思い出とし、この余韻を墓場までもってゆこうと決意したのである。
 それほどタツローのライヴはすばらしかった。

「これからどこでやるか。まあ、また考えましょう」
 タツローはあきらめの口調でそう言った。まるで追い出され、行き場をうしなった者のようだった。
 実際、追い出されたようなものではあるまいか。ミュージシャンも、われわれも。

 いったん休館、とか、建て替えるだけ、というような説明がある。あたかも、ホールはなくならない、と言いたげだ。寝言は寝てから言いなはれ、と言いたい。
 それは同じ場所に建つというにすぎず、現フェスティバルホールとは無関係な、まったくあたらしい謎のホールとなる。人で言えば、同姓同名の人物をもってきて「同じ人間です」というようなマヌケな理屈である。

 この11月か12月、公演中に、自分が大富豪だったら買い取って庭に移築すると言った歌手がいた。ステージに口づけをした歌手がいた。スクリーンに向かって敬礼をした歌手がいた。最後という思いがつきあげてきて涙した歌手がいた……そんな話が伝わってきている。

 音楽家や役者あってのホールではないのか。

 残すべきだった。

 さようなら、フェスティバルホール。
 

Fes0758
 

Fes0158
 

Fesnight58
 ↑帰り道にみた堂島川
 

 SONY α350
 SONY α50mm F1.4(SAL50F14)
 place: osaka festival hall
 date: Dec. 28, 2008

 

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2008年12月10日 (水)

コロボックル

Kb58sep
 

 コロポックルの木彫り人形である。koropo― でも、korobo― でも、どちらでもいいようだ。

 コロポックルは、北海道に住んでいたか住んでいるとされる小人で、アイヌ語で「フキの葉の下に暮らす人」という意味であるという。それゆえ、北海道の民芸品店などでは、このようなポーズをとった人形をしばしば見かける。帽子のように見えるのはフキの葉っぱである。

 10年以上前、北海道の二風谷(にぶたに)で買った。辻さんという方のお店で、ご自身がノミをふるっておられた。お歳は、さて……60歳にもうすこし、といったあたりだったろうか。
 旅の途上で、何度か店に立ち寄った。するとかならず、コーヒー&トウモロコシをごちそうになる。果ては、土産にまたトウモロコシを3本……なんてこともあった。茹でたてのそのうまさは、北海道でかじったことのある人はご存じだろう。
 私は、あつかましくもそこにのんびりとすわりこみ、いろんな話を聴かせていただいた。旅の醍醐味の一つである。
 ちいさなコロポックルは、太い枝にトーテムポールのようにいくつも連ねて彫り、あとで切り離すのだ……と、そんなことを教わったりした。
「今、こういうのを彫ってんだ」と彫りかけの新作を見せてくれたりした。

 木彫りついては、手先の器用な人がいて、やたらリアルなものがある。それはそれですばらしいと思うが、私は、この辻作品の、樹の特徴を活かした素朴な味わいが好きだ。
 愉しそうに彫っておられた。だから、いい作品になったのだろう。

 2、3年前、ひさしぶりに店を訪れたら、別の人がやっていた。
 やはり木彫り人形などを販売してはいるものの、以前の作業場のようなイメージは払拭され、いかにも今風の、洗練された感じの店になっていた。「……屋さん」というより、「……ショップ」といった感じだった。そして、当然というべきか、もうそこに辻作品を見つけることはできなかった。
 訊いてみると、辻さんは、数年ばかりその新店の片隅で作品を造られた後、引退されたとのことだった。
 以後、私はそこを訪れていない。

 ※当時使っていたミノルタのレンズで撮ってみた。
 

 SONY α350
 MINOLTA AF24-85mm F3.5-4.5

 

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2008年12月 7日 (日)

お宝テープをCD化 - ボベスコのブラームス/ヴァイオリン協奏曲

 以下、いささかマニアック、また結果的に、独善的、自慢めいた話になる。さらに冗長である。つい気が入ってしまった。何卒ご容赦ください。


 先日、がらくたをまとめた段ボール箱のなかから、古いカセットが出てきた。
 HITACHIの"LOW NOISE C-90"(すなわち90分テープ)。ケースはない。ハダカのままだ。
 これには記憶があり、たしか、昔のアニメの主題歌が入っていたはず……と、なつかしがって、カセットデッキにセットして再生してみたところ、果たしてそうであった。
 ところが、ずさんきわまる管理だったせいで、テープが傷んでおり、音はボロボロ。鑑賞に堪えるものではなくなっていた。
 そこでにわかに、ほかのテープが気になりだした。とくに音楽番組を録音した(※いわゆるエア・チェック)もののなかには、1回コッキリの放送でソフト化もされず、聴く手段がそのテープのみ、というのがある。

 真っ先に頭に浮かんだのが、ローラ・ボベスコの大阪公演をエアチェックしたカセットテープだった。ブラームスの協奏曲が入っていた。
 ひじょうに貴重な記録だ。というのは、彼女はこの曲にもっとも自信をもっていたにもかかわらず、ついに正規録音を残さなかったからである(※プライヴェート盤が出ていたが、全3楽章完演ではなかったはずで、たしか第1楽章が欠けていた)。
 もしかすると、あれも悲惨なことになっているのではないか……。

 私はあわてた。なにしろ、だいぶ長いこと再生していない。しかも、C-120(120分)に入れてあった。
 C-120というのは、長いテープを巻いてもかさばらないようにするため、テープ厚を薄くしてある。したがって、テープの強度が落ちており、結果、切断・変形などのトラブルを起こしやすいという弱点をもつ。
 片面に1時間番組を途切れ目なく録れる長所があるかわり、そういった短所をも併せもっているわけだ。
 このボベスコのブラームスも、当時、朝日放送でやっていた『百万人の音楽』という、およそ1時間の番組をまるごと録ったものだった。

 試聴してみた。20数年ぶりの音である。
 放送では、演奏の前に司会の芥川也寸志&野際陽子と、ゲストの山口勗氏によるトークが入る。
 それを聴いていると、途中でとんでもないワウが発生したりする。それでも人の会話であるから、内容が聴きとれれば、まずはよい。
 だが、それが音楽となるとそうはゆかぬ。

 いったん停めて、テープを調べたら、案の定だ。いわゆるワカメ状になっている。
 すでにして再生にたえられるかが危惧される状態といえた。場合によっては、2回目のプレイバックは無理かもしれない。
 そこで、のっけからパソコンにつなぎ、デジタル化しつつ聴くことにした。
 かかってくれれば、まだマシだ。途中でテープがちょん切れたりすれば万事休す。そんな思いで再生ボタンを押した。
 祈るような思いで聴きつづけていると、だんだんワウの発生率が下がってきたようだった。音の乱れがたまにしか起こらなくなってきた。
 と突然、テープが停止した。ふたたびカセットをチェック。テープがからまったり、切れたりはしていない。どうやら、一部テープどうしがくっついていたようだ。そこで、できるだけ刺激を与えたくないところを一か八かで、最初まで巻き戻し、さらに早送りと巻き戻しをして、テープ全体をほぐすことにした。
 これが奏功したようで、今度は途中で停止することなく、最後まで再生できた。

 さいわいなことに、肝心の演奏中、音の崩れは数度きりにとどまり、胸をなでおろす。
 AMから録った。音は悪い。当時はステレオ放送はおこなわれていない。
 それでも、ボベスコのヴァイオリンは、ダイナミックレンジのせまいモノラル音声をものともせずに届いてきた。その音色は彼女ならではのもの。気品にあふれ、みずみずしく、優雅であたたかい。そして、しなやかだ。ときとして慟哭するような哀しい叫びがある。
 演奏者と曲名のアナウンスがあり、そこで録音は終わっていた。

 このテープ、あと何年も放置していたら、と思うとゾッとする。
 音はすぐさまCDRに焼きつけた。こちらも寿命については未知数とされるが、カセットのままよりかはずっと安心感がある。
 とりあえずは、ひと安心か。

 この日の演奏をフィリップスがレコードにするつもりだったが流れた、と聞いた。テープは残っているに違いない。フィリップスにやる気がないのなら、Altus、OTAKEN、OPUS蔵、グリーンドア……どこでもいい、発掘に乗り出してくれぬものか。

 ボベスコは2003年9月に亡くなった。
 私が彼女の死を知ったのは、その日よりすくなくとも数ヶ月経過してからのことだった。日本のマスコミは彼女の死にまったく無関心だったのである。
 当時、追悼盤が出た記憶もない。どころか、彼女の死後、新盤(新発見盤)といえば、プライヴェート盤で出ていた〝サロンコンサート〟の復刻、バーバー、ヴュータンの第5協奏曲がそれぞれほかの演奏のフィルアップとしてリリースされたにすぎない。
 ただ死の前年、TDKが売り出したリサイタル盤は快挙と言っていい。
 ヴュータンの第5協奏曲といえば、来日時にNHK交響楽団との協演があった。電波に乗ったので、録音なり映像なりが残っているはずである。
 来年にも、そのCDなりDVDなりを手にできることを願っている。

 最後に――。
 貴重な録音をカセットテープで架蔵しておられる方は多いだろう。ただ保管してあるだけ、という私のようなズボラな人は、今一度チェックされることをおすすめしておきたい。


 【関連項】……『ボベスコのこと』(おもに上記コンサートの思い出話です)→

 
Bobescocdr58
 ↑CDRの完成。手塚幸紀&大阪フィルとの協演。ディスクナンバーは"FeFeFe's Bar lb-02"とした。"lb-01"は同日に演奏されたベートーヴェンで(※これも放送された)、そちらはだいぶ前にCDR化済。
 ちなみに、カセットテープは日立マクセルの"UD C120"。音楽用ではないようだ。
 まあしかし、写真だけなら、カルロス・クライバーの『第9』だって可能なワケで……(苦笑)。


  Brahms: Violin Concerto in D Major, Op.77
  Lola Bobesco(vn)  Yukinori Tezuka / Osaka Philharmonic Orchestra
  ( FeFeFe's Bar lb-02  CDR )
  ※まことに申しわけありませんが、この音源の譲渡・貸出等はできませんので念のため。
  

 SONY α350
 SIGMA 18-50mm F2.8 EX DC

 

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2008年11月17日 (月)

my nostalgic 4 - オグリキャップ 1

Oguri0258bw
 

 オグリキャップが17年ぶりに東京競馬場に登場した、というニュースがあった。
 で急遽、手元にある写真を載せたくなった。

 実は今年の北海道で、彼が繋養されている《優駿スタリオンステーション》をたずねてみた。10年ぶりくらいだったろう。前の場所からすこし離れたところへ移転しており、そこにはナリタブライアンの記念館も建っていた。
 オグリキャップを撮りたいと考えていたのであるが、牧場には人影がなく、ムリにたのみこむのも気が引け、そのまま引き上げた。

 写真は1995年ごろに撮影したもの。
 現役時代に競馬場で撮った写真もあるはずだ。追々載せてみたい。

 それにしても、真っ白になっていたな。人間の年齢に換算するとすでに80歳を超えているという。まだまだ長命してシンザンの長寿記録を更新してもらいたいものである。
 

 MINOLTA α707si
 TOKINA AT-X Pro AF80-200mm F2.8
 FUJICHROME Velvia (ISO50) 
 scanner: CANON LiDE 600F
 place: 北海道優駿スタリオンステーション 
 (※ポジが行方不明ゆえ、プリントをスキャン。さらにグレースケール化)

 

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2008年11月15日 (土)

hero

Umdvd58

 私にとって最初にして最大のヒーロー、ウルトラマン。
 作品としては次のウルトラセブンのほうが上であるけれども、それもこのウルトラマンがあったからこそである。
 セブンについては、大枚はたいて〝コレクターズ・ボックス〟のDVDを買った。できれば、〝マン〟、それにウルトラ・シリーズの原点である〝Q〟もほしい……とよくばりなことを思ってはいたが、思うまででストップしていた。とにかく、この種の特撮モノは値が張って困る。
 そのうちに、と考えていたところ、『ウルトラマン』が、海外では廉価販売されていることを知った。さっそく手に入れた。

 アメリカ製DVDだ。日本の一般的なシステムでは再生不可な「リージョン1」である。しかし、パソコンでなら観ることができる。値段も、全39話を6枚に収めて約35ドルとお買い得。送料込みで5000円足らずだった。
 函は丈夫なつくりではないが、デザインはなかなかすばらしく、製作者のウルトラマンへの思い入れのようなものが感じられ、日本人としてうれしい。
 画質も、鑑賞にはまったく差し支えのないレヴェルだ。
 もちろん、オリジナルの日本語音声も入っている。しかもそれは、デジタル処理され、高音質化されている(という。セリフはモノラル、主題歌と効果音は疑似ステレオという印象)。
 画質・音質とも、国内盤ならおそらくもっと……との思いがどうしても残るものの、この値段ならいたしかたなしであろう。
 英語字幕、英語音声&主題歌の選択も可能で、とくに主題歌は違和感ありまくりで笑える。
 函には、「オリジナルマスターを使うことはできなかったが、入手可能なもののなかから最良のフィルムを選んで使用した」という意のことが記されている。

 「気色悪い」「ケッタイ」……そんな怪獣・宇宙人が好きだった。
 バルタン星人、ダダ、ケロニア、ブルトン、ザラブ星人、ギャンゴ、ドドンゴ&ミイラなど。今、こうして並べてみると、どうやら人間の日常生活にこっそり侵入してくるような敵役を好んでいたようである。そして、そういうのが、今観ても実際おもしろい。
 制作者側もそのことに気づいたらしく、次のセブンではそうしたキャラを主体とし、それが成功の一因となった。

 制作はTBS。あのころは輝いていた。現在の凋落ぶりは目をおおうばかり。
 

 SONY α350
 SONY α50mm F1.4

 

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2008年9月15日 (月)

my nostalgic 3 - shinzan

Shinzan1s


 シンザンは、現役時代は五冠馬(皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞、有馬記念)となるなど活躍(※実際は、宝塚記念という現G1相当レースも制しているが、当時はランク的に低いレースとされていたらしく、〝冠〟とみなされていない)、引退後はサラブレッドの長寿記録をうちたてた。
 競馬史上における最強馬となると意見はわかれるだろうが、もっとも偉大な馬となれば、このシンザンで決まりではないか。
 シンザン……その名のもつ響きも美しい。
 撮影は1995年9月で、このとき彼は34歳である。残念ながら、翌年死亡。
 彼は1961年生まれであり、私よりも1歳年上なのだった。
 馬というのは優しい目、顔つきをしているものだが、シンザンはとくにその印象が強かった。


Shinzan21


 PENTAXのコンパクトカメラ
 FUJIFILM NEOPAN 100 PRESTO
 scanner: CANON LiDE 600F 
 place: 谷川牧場(北海道浦河)
 date: 09/1995

 

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2008年8月28日 (木)

my nostalgic 2 - 旅と旅行

Sadoakadomari3570_3 

 旅と旅行の違いとはなにか?
 たずねられることがある。旅には「人」が付き、旅行には「者」が付く、と応えたりする。そんなもん一緒や、と片づけてしまえば簡単な話であるが、なんとなく違っていそうな気もする。あえて私なりの考えを述べてみよう。

 遠近ではなく、長短でもない。つまり、エベレストであろうが六甲山であろうが関係なく、マダガスカル島であろうが淡路島であろうが関係なく、1年であろうが日帰りであろうが関係がない――。
 自力か他力の違いである。すなわち、おのれが主であるか客であるかの違いである。
 したがって、旅行会社の企画係にまかせたツアー参加、要するに、他人まかせの旅行などは、いくら大冒険であっても〝旅〟とは呼びたくない。

 中央アルプスの木曽駒ヶ岳に登ったときのことだ。
 だれもいない登山道をモクモクと登った。下山者ともほとんどすれ違わない。9月だった。夏山のシーズンは過ぎている。おそらく自分のうしろにも前にも登山者はほとんどいなかったろう。
 頂上に到達しておどろかされた。そこでは、スニーカーを履いたおっちゃん・おばちゃん・子どもたちが闊歩していたのだ……。
 理由はロープウェイだった。ミナサン、それに運ばれてくるのである。
 自分の脚を使うか、乗り物を使うか。自力か他力か。
 オレの目的は「観光」ではなく、「登山」だ。だから、ふもとの木曽福島から自力で登るのは当然のことである。そしてもちろん、登るだけが登山ではない。高山植物を愛でたり、下界を俯瞰したり、記念の石ころを拾ったりする愉しみも、すべてそこに含まれている。
 その夜はブルブル震えながらテントからはい出し、ウィスキーを口にふくみながら、すさまじいばかりの星の群れに圧倒された。
 ここまで自分の脚で登ってきたからこその星空だ。そんな思いがよぎり、叫びたい気持ちをかろうじておさえた。ついで、興奮のなか、静かに思った。この美しさ、この酒のうまさ、ロープウェイ組にわかってたまるか、と。
 旅と旅行の問題と通底しているかもしれない。

 ところで写真は、佐渡島の赤泊港にて。
 翌朝のフェリーの時間がはやかったためか(※憶えていない)、港の待合室前に、テントは張らず、マットだけを敷き、シュラフにくるまって寝た(※施錠されていて、待合室のなかには入れない。せっかくの自販機も使えぬわけだ……)。わびしい夜も、のちにはむしろいい思い出となる。
 旅の途上では、船着き場でフナムシと眠り、蚊に血を奪われつつ朝を迎えることだってあるのです。


 MINOLTA α707si
 MINOLTA AF24-85mm F3.5-4.5
 KODAK GOLD 100
 scanner: CANON LiDE 600F
 place: akadomari, sadogashima, niigata
 date: 08/1994


 

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2008年8月27日 (水)

my nostalgic 1

Tojinbo570_2

 MINOLTA α707si
 MINOLTA AF24-85mm F3.5-4.5
 KODAK GOLD 100
 scanner: CANON LiDE 600F
 place: around tojinbo, fukui
 date: 08/1994


 

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